今の御指摘は、通知そのものの問題と、それから、通知を支えている様々なメカニズムもあるかもしれないというお話であったように思います。
その通知を支えているものということでいいますと、ちょっと三ページを御覧いただけるとありがたいです。ここで、六八年から二〇一七まで、小学校、中学校それぞれの標準時数、五年生と中学一年生だけですけれども、全体像を示しております。
この中で、ゴシックの数字があるんですけれども、これが何かと申し上げると、三十五の倍数が崩れたところなんですね。これは細かな問題に見えるんですけれども、先ほど音楽の事例を出しましたけれども、五十時間、図工もそうですよね、五十時間になると分かりづらさが出てくるんですね。
それ以前のやはり標準時数というのはよい意味でシンプルなところがございまして、年時数の制度ではあるんですけれども、この三十五の倍数を使うことによって、もう立ち所に週の時間がイメージできた。そうすると、学校の先生方というのは基本的に真面目な先生方が多いですから、週時間割りが決まりますよね。
それで、現実に統計を取りますと、大体二百日、教育は授業日が取れますので、それをもう普通にやっていくと、例えば裁量で入学式から授業をするのはやめようとかしたとしても、三十五は必ずできる。だから、先生方が小まめに時数をチェックすることも要らないし、教育委員会が管理しなくても、ある意味では、標準時数が要求している世界を現場で自然に実現できた。
しかし、この三十五の倍数を崩したのも、いろいろなものを入れていこうという本当に御苦労の結果ではあるんですけれども、こうなった結果によって、例えば音楽、倍数を崩してしまうと、カウントをしないとやはりこの五十の時数を守るということができなくなるわけですね。
そういう意味でいうと、通知もありますけれども、時数を日々数えながらでなければ標準時数を守れないというのは、制度の問題としては大きなところかなというふうに考えております。
69大大森直樹東京学芸大学現職教員支援センター機構教授
御質問ありがとうございます。
まず、裁量の問題については、問題の大きさに対する整理がまだ教育学では十分にできていないところもあるかもしれません。
まず、裁量の主体の問題がございまして、一般的に教育界で裁量という言葉を使うと、それはたくさんあった方がいいよねということになりがちなんですけれども、裁量の主体が誰なのかということが一つポイントになってまいります。
例えば、地方分権の時代ですから、国との関係で教育委員会や学校に裁量権があるというのは、その関係の中では地方分権を前進させるということになると思いますし、だけれども、子供の視点から見た場合、子供自…
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70澤澤田稔上智大学総合人間科学部教授/教職・学芸員課程センター長
御質問ありがとうございます。
現場への縛りということを考えるときに注意したいなと思っているのは、学習指導要領そのものもやはり大事な部分はあると思うんですけれども、つまり、拘束性というものがありますので、学界では、もうそろそろ、一旦、手引的な、戦後の、もう少し柔軟な運用がそれこそ可能になるような部分を、考え直してもいいのではないかという議論も行われているぐらいですので。
しかし、一方で、今、学習指導要領だけを見ていても現場の縛られ感というのが見えない部分があるというふうに申し上げるのは、これは現場の責任も部分的にはあるかもしれないので難しいんですけれど…
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71
大石あきこ(れいわ)
そうですね、学習指導要領の法的確認だったりは本当に必要だと思っています。結果として、必要な法改正があったりとか通知の出し直しがあったり、法制度整備というのも必要かもしれませんけれども、そういうある意味の勘違いといいますか、そこまでそもそもやらなくてもいいのに、やらなければいけないものとして罰ゲームとして機能しているのではないかなという問題意識がありまして、引き続き、大森参考人と澤田参考人にお伺いします。
お二人とも、二〇〇三年の文科省の通知を資料の中に引用されていますよね。この通知によって標準の解釈の実質的変更が、実質的になされてしまったんだよという文…
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- (上の発言)
72大大森直樹東京学芸大学現職教員支援センター機構教授
今の御指摘は、通知そのものの問題と、それから、通知を支えている様々なメカニズムもあるかもしれないというお話であったように思います。
その通知を支えているものということでいいますと、ちょっと三ページを御覧いただけるとありがたいです。ここで、六八年から二〇一七まで、小学校、中学校それぞれの標準時数、五年生と中学一年生だけですけれども、全体像を示しております。
この中で、ゴシックの数字があるんですけれども、これが何かと申し上げると、三十五の倍数が崩れたところなんですね。これは細かな問題に見えるんですけれども、先ほど音楽の事例を出しましたけれども、五十時間、図工もそうですよね、五十時間になると分かりづらさが出てくるんですね。
それ以前のやはり標準時数というのはよい意味でシンプルなところがございまして、年時数の制度ではあるんですけれども、この三十五の倍数を使うことによって、もう立ち所に週の時間がイメージできた。そうすると、学校の先生方というのは基本的に真面目な先生方が多いですから、週時間割りが決まりますよね。
それで、現実に統計を取りますと、大体二百日、教育は授業日が取れますので、それをもう普通にやっていくと、例えば裁量で入学式から授業をするのはやめようとかしたとしても、三十五は必ずできる。だから、先生方が小まめに時数をチェックすることも要らないし、教育委員会が管理しなくても、ある意味では、標準時数が要求している世界を現場で自然に実現できた。
しかし、この三十五の倍数を崩したのも、いろいろなものを入れていこうという本当に御苦労の結果ではあるんですけれども、こうなった結果によって、例えば音楽、倍数を崩してしまうと、カウントをしないとやはりこの五十の時数を守るということができなくなるわけですね。
そういう意味でいうと、通知もありますけれども、時数を日々数えながらでなければ標準時数を守れないというのは、制度の問題としては大きなところかなというふうに考えております。
73澤澤田稔上智大学総合人間科学部教授/教職・学芸員課程センター長
御質問ありがとうございます。
ただ、やはり、私の専門ではないので、本当にちゃんとお答えすることができないということだけ正直に申し上げたいと思います。教育行政学とか、そういった方々の御専門の知識をかりたいというところがございます。
その上でですけれども、要するに、現場は、通知はかなり縛りが強いものとして受け止めています。事務連絡と通知は全然違うものとして受け止めていますので、したがって、現場の受け止め方は、通知と来たときには、そんな、やってもやらなくてもいいという感覚で通知を受け止めている自治体とか学校というのは恐らくないのではないかというふうに思って…
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大石あきこ(れいわ)
ありがとうございます。
お二人のお答えとも、やはり政治的だったり文科省の方での見えない力といいますか、学校の先生が思考停止したり硬直化している性質だというよりは、もうちょっと違う、見えない力といいますか、そういう空気によって、通知が厳格に守らないと死ぬものみたいなルールとして機能してしまっているのかなと思いました。
先ほどの三十五の倍数という話も、滑稽といえば滑稽なんですよね。究極、裁量とは何かというと、これは五十に必ずしもしなくていいぞという話があればそうはならないわけですけれども、三十五の倍数でないことによっていろいろな混乱を来すというのは、確か…
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中村裕之(自民)
以上で参考人に対する質疑は終了いたしました。
この際、参考人各位に一言御礼を申し上げます。
参考人の皆様には、大変貴重な御意見をお述べいただきましたこと、本当にありがとうございます。今後の文部科学行政の参考にさせていただきたいと思います。委員会を代表して、心から厚く御礼申し上げます。ありがとうございます。(拍手)
次回は、来る十八日水曜日午前八時五十分理事会、午前九時委員会を開会することとし、本日は、これにて散会いたします。
午前十一時四十三分散会
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