そうですね、学習指導要領の法的確認だったりは本当に必要だと思っています。結果として、必要な法改正があったりとか通知の出し直しがあったり、法制度整備というのも必要かもしれませんけれども、そういうある意味の勘違いといいますか、そこまでそもそもやらなくてもいいのに、やらなければいけないものとして罰ゲームとして機能しているのではないかなという問題意識がありまして、引き続き、大森参考人と澤田参考人にお伺いします。
お二人とも、二〇〇三年の文科省の通知を資料の中に引用されていますよね。この通知によって標準の解釈の実質的変更が、実質的になされてしまったんだよという文脈でお書きになっています。アとイから構成されて、アが、授業時数の実績の管理を厳格化して、併せてイで、標準を上回る適切な指導確保により、標準の解釈の実質的変更、上回っても下回ってもよいというところが、下回っちゃいけないよという解釈変更として実質的に全国で進んだというふうに資料にも提示されていると思うんですけれども、私も公務員でしたので、この通知というのは通知にすぎないわけで、やらなきゃいけないわけではないんですよね、言ってしまえば。なのに、この通知が、もう絶対やらなきゃいけないものとして実質的に機能してしまっているのではないかと考えていまして。
ただ、通知にすぎない上で、これがすごく機能しているのであれば、見直しが要ると思うんですね。それは、見直しましたという通知まで送って、その通知の実質的効果を通知で打ち消すべきではないかと思うんですけれども、その辺り、二〇〇三年の文科省通知に関して、何らかのその見直しに関してアドバイスというか御意見がありましたら、お願いします。
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大石あきこ(れいわ)
れいわ新選組、大石あきこです。
参考人の皆様、今日はありがとうございます。どの参考人の皆様からも、現場での教育実践をお伺いすることができて、本当によかったです。子供たちが障害の有無とか、また国籍とか母国語に関係なく共に学んでいく、愛情を持って接していくという実践をされていることを拝聴できまして、感銘を受けました。本当にありがとうございます。
私は、本日は、学習指導要領についてお伺いしたく、大森参考人と澤田参考人にお伺いしたいと思います。
学習指導要領については、現状、もう既に参考人の方々からも話されましたけれども、どうも罰ゲームとして機能しているだ…
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69大大森直樹東京学芸大学現職教員支援センター機構教授
御質問ありがとうございます。
まず、裁量の問題については、問題の大きさに対する整理がまだ教育学では十分にできていないところもあるかもしれません。
まず、裁量の主体の問題がございまして、一般的に教育界で裁量という言葉を使うと、それはたくさんあった方がいいよねということになりがちなんですけれども、裁量の主体が誰なのかということが一つポイントになってまいります。
例えば、地方分権の時代ですから、国との関係で教育委員会や学校に裁量権があるというのは、その関係の中では地方分権を前進させるということになると思いますし、だけれども、子供の視点から見た場合、子供自…
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70澤澤田稔上智大学総合人間科学部教授/教職・学芸員課程センター長
御質問ありがとうございます。
現場への縛りということを考えるときに注意したいなと思っているのは、学習指導要領そのものもやはり大事な部分はあると思うんですけれども、つまり、拘束性というものがありますので、学界では、もうそろそろ、一旦、手引的な、戦後の、もう少し柔軟な運用がそれこそ可能になるような部分を、考え直してもいいのではないかという議論も行われているぐらいですので。
しかし、一方で、今、学習指導要領だけを見ていても現場の縛られ感というのが見えない部分があるというふうに申し上げるのは、これは現場の責任も部分的にはあるかもしれないので難しいんですけれど…
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- (上の発言)
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大石あきこ(れいわ)
そうですね、学習指導要領の法的確認だったりは本当に必要だと思っています。結果として、必要な法改正があったりとか通知の出し直しがあったり、法制度整備というのも必要かもしれませんけれども、そういうある意味の勘違いといいますか、そこまでそもそもやらなくてもいいのに、やらなければいけないものとして罰ゲームとして機能しているのではないかなという問題意識がありまして、引き続き、大森参考人と澤田参考人にお伺いします。
お二人とも、二〇〇三年の文科省の通知を資料の中に引用されていますよね。この通知によって標準の解釈の実質的変更が、実質的になされてしまったんだよという文脈でお書きになっています。アとイから構成されて、アが、授業時数の実績の管理を厳格化して、併せてイで、標準を上回る適切な指導確保により、標準の解釈の実質的変更、上回っても下回ってもよいというところが、下回っちゃいけないよという解釈変更として実質的に全国で進んだというふうに資料にも提示されていると思うんですけれども、私も公務員でしたので、この通知というのは通知にすぎないわけで、やらなきゃいけないわけではないんですよね、言ってしまえば。なのに、この通知が、もう絶対やらなきゃいけないものとして実質的に機能してしまっているのではないかと考えていまして。
ただ、通知にすぎない上で、これがすごく機能しているのであれば、見直しが要ると思うんですね。それは、見直しましたという通知まで送って、その通知の実質的効果を通知で打ち消すべきではないかと思うんですけれども、その辺り、二〇〇三年の文科省通知に関して、何らかのその見直しに関してアドバイスというか御意見がありましたら、お願いします。
72大大森直樹東京学芸大学現職教員支援センター機構教授
今の御指摘は、通知そのものの問題と、それから、通知を支えている様々なメカニズムもあるかもしれないというお話であったように思います。
その通知を支えているものということでいいますと、ちょっと三ページを御覧いただけるとありがたいです。ここで、六八年から二〇一七まで、小学校、中学校それぞれの標準時数、五年生と中学一年生だけですけれども、全体像を示しております。
この中で、ゴシックの数字があるんですけれども、これが何かと申し上げると、三十五の倍数が崩れたところなんですね。これは細かな問題に見えるんですけれども、先ほど音楽の事例を出しましたけれども、五十時間、…
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73澤澤田稔上智大学総合人間科学部教授/教職・学芸員課程センター長
御質問ありがとうございます。
ただ、やはり、私の専門ではないので、本当にちゃんとお答えすることができないということだけ正直に申し上げたいと思います。教育行政学とか、そういった方々の御専門の知識をかりたいというところがございます。
その上でですけれども、要するに、現場は、通知はかなり縛りが強いものとして受け止めています。事務連絡と通知は全然違うものとして受け止めていますので、したがって、現場の受け止め方は、通知と来たときには、そんな、やってもやらなくてもいいという感覚で通知を受け止めている自治体とか学校というのは恐らくないのではないかというふうに思って…
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大石あきこ(れいわ)
ありがとうございます。
お二人のお答えとも、やはり政治的だったり文科省の方での見えない力といいますか、学校の先生が思考停止したり硬直化している性質だというよりは、もうちょっと違う、見えない力といいますか、そういう空気によって、通知が厳格に守らないと死ぬものみたいなルールとして機能してしまっているのかなと思いました。
先ほどの三十五の倍数という話も、滑稽といえば滑稽なんですよね。究極、裁量とは何かというと、これは五十に必ずしもしなくていいぞという話があればそうはならないわけですけれども、三十五の倍数でないことによっていろいろな混乱を来すというのは、確か…
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