山本大地 (自由民主党)

2025年2月28日・第217回国会 衆議院 予算委員会第四分科会 第2号(外部サイト、新しいタブで開きます) の 112 番目の発言(外部サイト、新しいタブで開きます)(全 184 発言)

ありがとうございました。

先ほど申し上げました私の地元、「絶景の宝庫 和歌の浦」について、先ほど御答弁にもありましたとおり、いわゆるストーリーを少し紹介をしたいというふうに思います。

潮の干満によって干潟が現れては消え、刻一刻と変化をしながら四季折々の多彩な風景を見せる和歌の浦。万葉歌に歌われ、芸術や文化を育んだ歴史ある風景は、今もなお人を魅了し続けている。

芸術と文化を生んだ絶景というタイトルがつけられており、和歌の浦は、和歌山市南部と海南市北部に位置する和歌浦湾を取り巻く景勝地でございまして、和歌川の河口に広がる干潟を中心に、南は熊野参詣道、そして藤白坂から、西は紀伊水道に面した雑賀崎まで、緑豊かな山並みと大海原に抱かれた絶景の宝庫でございます。

今から千三百年前の奈良時代、若の浦と呼ばれていたこの地を訪れた聖武天皇が、玉のように美しく島々が連なる絶景に感動して詔を発し、玉津島の神とアカノウラノミタマをお祭りし、この風景を末永く守るように命じたことによります。行幸に従った万葉歌人の山部赤人がこの和歌浦の絶景をたたえて詠んだ躍動感あふれる歌は、今も広く知られておるところでございます。

平安時代の歌人、紀貫之がこの山部赤人の歌を、和歌の聖典ともされる古今和歌集で取り上げたことから、和歌の聖地としてあがめられ、和歌の神が祭られ、やがて、和歌山の和歌を取って和歌の浦と呼ばれるようになりました。熊野参詣や西国巡礼の際に、時の関白や大臣までもが訪れ、多くの和歌や物語に詠み込まれたとされております。

江戸時代には、万葉歌や新古今和歌集に歌われた情景を描いた和歌浦十景が描かれまして、数々の美術工芸品の題材ともなりました。また、和歌の浦を模した庭園、六義園が江戸に造られるなど、和歌の浦の風景は天下に名をはせる名所となり、文化人たちの憧れとなりました。

戦国時代、紀州攻めを行った豊臣秀吉は和歌の浦を遊覧の後、その北方の岡山に和歌山城を築かせ、この和歌の浦にちなんだ名前が現在の県名の由来ともなっております。

徳川幕府の治める世となりまして、家康の十男である頼宣公が、紀州五十五万五千石の初代藩主として和歌山城に入ることになるんですが、頼宣は、和歌の浦の北西にそびえる権現山の中腹に父、家康を祭る東照宮を建立し、干潟に浮かぶ妹背山には母、お万の方をしのぶ多宝塔を建て、妹背山に三断橋を架けて観海閣を設け、風景を楽しむ場として民衆に開放をいたしました。

近代の和歌の浦には夏目漱石など文人墨客も多数来遊しており、琴の浦には温山荘が築かれ、皇族や大臣もたくさん訪れております。

そして、現代、約四百年の歴史を伝える和歌の浦の豪華けんらんな行列、和歌祭りが和歌の浦の水辺を彩りながら行進をする様子は、その祭りに参加する若者や子供たちの姿が非常に印象深いものとなっており、環境保全や万葉歌の勉強会などの活動も地元で進められておりまして、時代を超えて人々を魅了し続けるすばらしき遺産を次世代に伝える仕組みが行われている、そういうストーリーとなっております。

このストーリーをお聞きになって分かるとおり、先ほどの御答弁にもありましたが、地域や歴史、和歌、そしてまた絵画やお祭りを通じて、我が国の文化、伝統を語るストーリーを日本遺産として認定をし、今までばらばらに点在していた文化財を面として活用するのは非常に効果的である、私もそう考えます。

ただ、一つ、この認定制度におきまして、一回認定をされたから終わりというわけでなく、先ほど答弁にもありました、また統括評価なり継続審査の仕組みを導入して、いわば入替え制のような制度で今ブランド力の向上を図っているところでありますが、先ほど数字も出ていましたが、百四か所という数字、この数字ありきになってしまうのは非常に私は危険ではないかなというふうに思っております。もちろん、無尽蔵に増やしていいものだとは思いませんけれども、ただ、いいものは加えていってもいいと思いますし、百二十、百三十、魅力あるものを増やしていくのも一つの手ではないかなというふうに思います。

そして、互いにブラッシュアップを行い、国内外にしっかり発信し、観光資源としての活用、そして文化財の保護、経済の好循環を目指していくべきと思いますが、今後の日本遺産制度につきまして、今日御出席いただいています赤松政務官に、思いや決意をお聞かせいただけますでしょうか。

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