皆さん、こんにちは。普天間飛行場が所在する宜野湾市から参りました市長の佐喜眞淳でございます。
本日は貴重な機会を賜り、心より感謝を申し上げたいと思います。
さて、今年は普天間飛行場全面返還合意から三十年という非常に重要な節目であることを踏まえまして、主に、普天間飛行場の主な経緯及び早期閉鎖、返還などの視点、跡地利用の観点、本市への新たな支援の観点、以上の三つの観点から意見を述べさせていただきたいと思います。
まず、一点目の普天間飛行場の主な経緯及び早期閉鎖、返還などの観点でございます。
御案内のように、平成八年四月十二日、当時の橋本内閣総理大臣とモンデール駐日米国大使の共同記者会見において、今後、五年ないし七年以内に、十分な代替施設が完成をし運用可能になった後、普天間飛行場を返還するとの発表がなされました。町の中心に位置する普天間飛行場の全面返還合意は、沖縄県の基地負担軽減の象徴であり、宜野湾市民のみならず沖縄県民が心から喜んだところでもございます。
全面返還合意は、沖縄県内の代替施設への移設という条件付でもございました。平成九年十二月、当時の比嘉鉄也名護市長が、私は移設を容認する、普天間の苦しみに応えたい、その代わり私は腹を切る、遺言書は、北部、県北部やんばるの末広がりの発展だとして、海上ヘリ基地受入れを表明をし、その後、任期途中で市長職を辞職されました。また、比嘉市長の後継として当選された岸本建男名護市長におかれましては、平成十一年十二月に移設受入れのための条件を示し、受入れを表明をされました。
基地負担は国民が平等に負担するべきでありますが、全国で普天間飛行場の移設先を受け入れる市町村がない中、受入れを決断していただいたのは名護市民、名護市民だけでございます。比嘉市長を始め、岸本市長に対しまして、深く敬意と感謝を申し上げたいと思います。
普天間飛行場の返還には代替施設が必要であるという条件は日米両政府の合意のため、私どもの選択肢はございません。三十年がたった現在においてもこの条件は変わらず、破棄する、否定することは、イコール固定化につながることだと考えております。
これまで幾度となく示された普天間飛行場の返還期日はいずれも実現が至らず、そのたびに市民は落胆と失望を繰り返しており、返還合意から三十年が経過した今なお、返還期日も示されておりません。これは、先行きが見えないという意味で市民にとって大きな不安であり、二十年、三十年と時がたちますが、四十年目はもう考えたくないというのが市民の切実な思いであります。
この三十年もの間には、返還の実現を夢見ながら亡くなられ、あるいは未来を、明るい未来を享受することもかなわなかった多くの市民がおられます。特に、一昨年、普天間飛行場問題解決のために政府要請途中に亡くなられた松川正則市長の思いというものを私どもは忘れてはならないと思います。そういう意味においても、いまだに返還が実現されないことは非常に残念であり、極めて遺憾であります。
普天間飛行場返還問題に係る宜野湾市民の民意につきましては、普天間飛行場の危険性除去について他に方策がなければ辺野古移設を容認せざるを得ないとして挑んだ、亡くなられた松川正則前市長が再選した令和四年の宜野湾市長選挙や、令和六年の私の市長選挙を含め、近年の宜野湾市長選挙の結果でも示されているように、移設反対を唱えた相手候補に勝利したことは、市民が現実的な判断を下したものと考えております。
普天間飛行場を一日も早く返還してほしい、固定化は絶対避けなければならないというのが、それが市民の強い願いであると同時に、十万人余の市民の生命と財産を預かる宜野湾市長としての責務であると考えております。
ここまでも、改めて普天間飛行場返還に関するこれまでの主な経過について御説明をいたしましたけれども、事前に配付してございます資料を御参考ください。
まず、今申し上げたように、平成八年四月には、共同記者会において、五年ないし七年以内に、十分な施設が完成した後に普天間飛行場を返還すると。あるいは、平成十六年八月には、米軍ヘリが沖縄国際大学へと墜落事故がございました。さらには、二〇一四年という返還期日も延期をされ、平成二十一年七月には、鳩山民主党、当時の、代表が沖縄市で行われた党公認候補の応援演説の際に、普天間飛行場移設に関し、最低でも県外と発言。そして、それを踏まえながら、平成二十二年五月には、鳩山総理、当時、が就任後初めて沖縄に訪問した際に、最低でも県外との撤回を表明してございます。言い換えれば、辺野古に回帰したということでございます。
さらには、平成二十七年十一月に、政府が、沖縄県知事による普天間飛行場代替施設に関する埋立承認取消しを求めて訴訟が開始をされました。その訴訟の中身として、令和五年九月には、政府と沖縄県との普天間飛行場代替移設建設に関する一連の訴訟が終結をし、最高裁の判決が是正ということで県の上告を却下いたします。県の敗訴が確定をいたしました。
以来、広く今日まで、普天間飛行場の問題が常に大きな市民の関心事ではございますが、この三十年もの間、市民は、昼夜を問わず発生する航空機騒音被害に加え、米軍ヘリの沖縄国際大学への墜落事故や普天間第二小学校への窓落下事故が発生し、幸いにも学生や住民、子供たちへの人的被害がなかったものの、航空機事故の危険性にさらされ続けられるとともに、PFOSを含む泡消火剤の漏出事故など、過重な基地負担を強いられ続けているのが今の宜野湾市でございます。
さらには、昨年度は、外来機であるジェット戦闘機の離発着が四百八十八回にも上がるなど、騒音被害が悪化をし、市民から基地被害に関する苦情を受け付ける基地被害一一〇番が、過去三年の平均値が大体三百件ではございますけれども、三倍以上の千百三十四件もの切実な声が寄せられているなど、市民の我慢は限界を超えております。
一方で、令和六年一月十日より普天間飛行場代替施設建設の埋立ての工事が再開をされ、政府の説明では、提供手続完了まで同日から起算して十年を要し、部隊の移転などのプロセスを考慮した上で返還時期が決まるとのことでございます。代替施設の提供手続完了まで現時点で十年を切っているものと考えておりますが、具体的な返還時期については未定であります。このままでは、全面返還合意から四十年を経過しても、普天間飛行場が本市の中心にあり続けることとなります。
その結果として、この間、慢性的な交通渋滞や市街地の分断、非効率的な公共施設の設置など、本市は計画的な町づくりを行うことができず、約十万人の市民の生活は不便を強いられ続けることを踏まえれば、日米両政府は一日も早い普天間飛行場の全面返還に向けた取組をより一層進めていくべきだと考えております。
また、視点を世界に広げてみますと、沖縄県は日本とアジアとの結節点であり、広大な普天間飛行場の跡地利用は今後の日本経済を牽引する可能性を秘めております。こうした観点からも、返還までの道筋を早期に決め、世界に誇れる沖縄を象徴する跡地利用に向けた取組を加速していく必要があると考えております。
本年は普天間飛行場全面返還合意から三十年の節目の年でございます。同飛行場の一日も早い閉鎖、返還及び速やかな運用停止の実現に向け、実現並びに返還期日の早期確定を日米両政府に強く意思表示することを重要と考えており、宜野湾市民及び市内の各種団体が連携をして、宜野湾市が一丸となったチーム宜野湾を結成をし、日米両政府に対して共同要請行動を行う予定でございます。
具体的には、今月二十六日日曜日に宜野湾市内で、「「もう待てない!全面返還合意から三十年!」普天間飛行場の早期閉鎖・返還を求める「チーム宜野湾」結成式及び共同要請行動出発式」を開催をいたします。二十八日には県内、沖縄県を含め県内各機関に対して、また、三十日から三十一日にかけては東京都内で日米両政府に対して共同で要請を行う予定でございます。
返還合意の原点は、町のど真ん中に位置し、世界で最も危険な飛行場と言われている普天間飛行場の危険性及び基地負担軽減であり、普天間飛行場の固定化は絶対あってはなりません。過ぎ去った三十年を取り戻すことはできませんが、過重な基地負担を強いられ続けている今現在の市民の負担軽減のため、また明るい、また未来ある跡地利用というバトンを次の世代へとつなぐためにも、チーム宜野湾の取組を進めてまいりたいと考えております。
次に、跡地利用の観点についてでございますが、政府におかれましては、普天間飛行場跡地利用に関してこれまでも格別の御理解と御支援を賜っております。本市ではこれまで、公共用地の先行取得事業の取組や、政府、沖縄県などと連携をし、世界に誇れる沖縄を象徴する跡地利用計画策定に向けた検討を進めております。令和九年度には全体計画の取りまとめを予定しております。
基地跡地利用の先行モデル地区として取組を進めている本市の西普天間住宅地区の実績として、返還から十年で、沖縄健康医療拠点の開所という形でその一部の町開きを行うことができましたことが、普天間飛行場跡地は同地区の約十倍の面積であり、支障除去も含め、跡地開発には相当の時間を要することが想定をされております。
広大な普天間飛行場の跡地利用は今後の日本の経済を牽引する可能性を秘めており、この観点からも、普天間飛行場の早期返還に向けて御尽力を賜りますようお願いをさせていただきたいと思います。
最後に、三点目の本市への新たな支援の観点についてでございますが、これまで、政府におかれましては、普天間飛行場東側の約四ヘクタールの返還によって実現した市道宜野湾十一号の整備を始め、基地跡地利用の先行モデルとして西普天間住宅地区における琉球大学医学部及び大学病院の移設や沖縄健康医療拠点の形成の町づくりなど、様々な形で本市への御支援をいただいているところであり、心より感謝を申し上げたいと思います。
しかし、本市の中央部に所在する、存在する普天間飛行場は返還合意後も三十年運用が継続され、今後、少なくても返還までの約十年間の間、騒音被害や事故の危険性などの基地負担を受け続け、計画的な町づくりもできず、生活の不便や我慢を強いられていることは市民にとって極めて深刻な問題であります。
さらに、返還後も跡地利用が可能になるまで相当の時間を要することを踏まえれば、政府には、着実に市民の負担を軽減するよう、本市への新たな支援をお願いしたいところでもございます。
最後になりますが、意見陳述はこれで終了いたしますが、委員の皆様方におかれましては、本日述べさせていただきました内容を踏まえて、今後とも普天間飛行場問題について国会で忌憚なく議論をいただくとともに、一日も早く閉鎖、返還ができるよう皆様方のお力添えを賜りますよう、宜野湾市を代表して最後にお願いして、私の挨拶とさせていただきます。
以上でございます。
2
横沢高徳(立憲)
参考人の出席要求に関する件についてお諮りいたします。
沖縄・北方問題及び地方の活性化等に関しての総合的な対策樹立に関する調査のため、本日の委員会に、宜野湾市長佐喜眞淳君、沖縄国際大学経済学部長・経済学部教授・沖縄国際大学理事前泊博盛君及び大東文化大学法学部政治学科教授川名晋史君を参考人として出席を求め、その説明を聴取することに御異議ございませんか。
〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
この発言のページ
3
横沢高徳(立憲)
御異議ないと認め、さよう決定いたします。
─────────────
この発言のページ
4
横沢高徳(立憲)
沖縄・北方問題及び地方の活性化等に関しての総合的な対策樹立に関する調査のうち、在沖縄米軍基地問題及び沖縄振興に関する件を議題とし、参考人の皆様から御意見を伺います。
この際、参考人の皆様に一言御挨拶を申し上げます。
本日は、御多忙のところ御出席をいただき、誠にありがとうございます。
皆様方から忌憚のない御意見を賜りまして、今後の調査の参考にしたいと存じますので、よろしくお願いいたします。
次に、議事の進め方について申し上げます。
まず、佐喜眞参考人、前泊参考人、川名参考人の順にお一人十五分以内で御意見をお述べいただき、その後、委員の質疑にお答え…
この発言のページ
- (上の発言)
5佐佐喜眞淳宜野湾市長
皆さん、こんにちは。普天間飛行場が所在する宜野湾市から参りました市長の佐喜眞淳でございます。
本日は貴重な機会を賜り、心より感謝を申し上げたいと思います。
さて、今年は普天間飛行場全面返還合意から三十年という非常に重要な節目であることを踏まえまして、主に、普天間飛行場の主な経緯及び早期閉鎖、返還などの視点、跡地利用の観点、本市への新たな支援の観点、以上の三つの観点から意見を述べさせていただきたいと思います。
まず、一点目の普天間飛行場の主な経緯及び早期閉鎖、返還などの観点でございます。
御案内のように、平成八年四月十二日、当時の橋本内閣総理大臣とモンデール駐日米国大使の共同記者会見において、今後、五年ないし七年以内に、十分な代替施設が完成をし運用可能になった後、普天間飛行場を返還するとの発表がなされました。町の中心に位置する普天間飛行場の全面返還合意は、沖縄県の基地負担軽減の象徴であり、宜野湾市民のみならず沖縄県民が心から喜んだところでもございます。
全面返還合意は、沖縄県内の代替施設への移設という条件付でもございました。平成九年十二月、当時の比嘉鉄也名護市長が、私は移設を容認する、普天間の苦しみに応えたい、その代わり私は腹を切る、遺言書は、北部、県北部やんばるの末広がりの発展だとして、海上ヘリ基地受入れを表明をし、その後、任期途中で市長職を辞職されました。また、比嘉市長の後継として当選された岸本建男名護市長におかれましては、平成十一年十二月に移設受入れのための条件を示し、受入れを表明をされました。
基地負担は国民が平等に負担するべきでありますが、全国で普天間飛行場の移設先を受け入れる市町村がない中、受入れを決断していただいたのは名護市民、名護市民だけでございます。比嘉市長を始め、岸本市長に対しまして、深く敬意と感謝を申し上げたいと思います。
普天間飛行場の返還には代替施設が必要であるという条件は日米両政府の合意のため、私どもの選択肢はございません。三十年がたった現在においてもこの条件は変わらず、破棄する、否定することは、イコール固定化につながることだと考えております。
これまで幾度となく示された普天間飛行場の返還期日はいずれも実現が至らず、そのたびに市民は落胆と失望を繰り返しており、返還合意から三十年が経過した今なお、返還期日も示されておりません。これは、先行きが見えないという意味で市民にとって大きな不安であり、二十年、三十年と時がたちますが、四十年目はもう考えたくないというのが市民の切実な思いであります。
この三十年もの間には、返還の実現を夢見ながら亡くなられ、あるいは未来を、明るい未来を享受することもかなわなかった多くの市民がおられます。特に、一昨年、普天間飛行場問題解決のために政府要請途中に亡くなられた松川正則市長の思いというものを私どもは忘れてはならないと思います。そういう意味においても、いまだに返還が実現されないことは非常に残念であり、極めて遺憾であります。
普天間飛行場返還問題に係る宜野湾市民の民意につきましては、普天間飛行場の危険性除去について他に方策がなければ辺野古移設を容認せざるを得ないとして挑んだ、亡くなられた松川正則前市長が再選した令和四年の宜野湾市長選挙や、令和六年の私の市長選挙を含め、近年の宜野湾市長選挙の結果でも示されているように、移設反対を唱えた相手候補に勝利したことは、市民が現実的な判断を下したものと考えております。
普天間飛行場を一日も早く返還してほしい、固定化は絶対避けなければならないというのが、それが市民の強い願いであると同時に、十万人余の市民の生命と財産を預かる宜野湾市長としての責務であると考えております。
ここまでも、改めて普天間飛行場返還に関するこれまでの主な経過について御説明をいたしましたけれども、事前に配付してございます資料を御参考ください。
まず、今申し上げたように、平成八年四月には、共同記者会において、五年ないし七年以内に、十分な施設が完成した後に普天間飛行場を返還すると。あるいは、平成十六年八月には、米軍ヘリが沖縄国際大学へと墜落事故がございました。さらには、二〇一四年という返還期日も延期をされ、平成二十一年七月には、鳩山民主党、当時の、代表が沖縄市で行われた党公認候補の応援演説の際に、普天間飛行場移設に関し、最低でも県外と発言。そして、それを踏まえながら、平成二十二年五月には、鳩山総理、当時、が就任後初めて沖縄に訪問した際に、最低でも県外との撤回を表明してございます。言い換えれば、辺野古に回帰したということでございます。
さらには、平成二十七年十一月に、政府が、沖縄県知事による普天間飛行場代替施設に関する埋立承認取消しを求めて訴訟が開始をされました。その訴訟の中身として、令和五年九月には、政府と沖縄県との普天間飛行場代替移設建設に関する一連の訴訟が終結をし、最高裁の判決が是正ということで県の上告を却下いたします。県の敗訴が確定をいたしました。
以来、広く今日まで、普天間飛行場の問題が常に大きな市民の関心事ではございますが、この三十年もの間、市民は、昼夜を問わず発生する航空機騒音被害に加え、米軍ヘリの沖縄国際大学への墜落事故や普天間第二小学校への窓落下事故が発生し、幸いにも学生や住民、子供たちへの人的被害がなかったものの、航空機事故の危険性にさらされ続けられるとともに、PFOSを含む泡消火剤の漏出事故など、過重な基地負担を強いられ続けているのが今の宜野湾市でございます。
さらには、昨年度は、外来機であるジェット戦闘機の離発着が四百八十八回にも上がるなど、騒音被害が悪化をし、市民から基地被害に関する苦情を受け付ける基地被害一一〇番が、過去三年の平均値が大体三百件ではございますけれども、三倍以上の千百三十四件もの切実な声が寄せられているなど、市民の我慢は限界を超えております。
一方で、令和六年一月十日より普天間飛行場代替施設建設の埋立ての工事が再開をされ、政府の説明では、提供手続完了まで同日から起算して十年を要し、部隊の移転などのプロセスを考慮した上で返還時期が決まるとのことでございます。代替施設の提供手続完了まで現時点で十年を切っているものと考えておりますが、具体的な返還時期については未定であります。このままでは、全面返還合意から四十年を経過しても、普天間飛行場が本市の中心にあり続けることとなります。
その結果として、この間、慢性的な交通渋滞や市街地の分断、非効率的な公共施設の設置など、本市は計画的な町づくりを行うことができず、約十万人の市民の生活は不便を強いられ続けることを踏まえれば、日米両政府は一日も早い普天間飛行場の全面返還に向けた取組をより一層進めていくべきだと考えております。
また、視点を世界に広げてみますと、沖縄県は日本とアジアとの結節点であり、広大な普天間飛行場の跡地利用は今後の日本経済を牽引する可能性を秘めております。こうした観点からも、返還までの道筋を早期に決め、世界に誇れる沖縄を象徴する跡地利用に向けた取組を加速していく必要があると考えております。
本年は普天間飛行場全面返還合意から三十年の節目の年でございます。同飛行場の一日も早い閉鎖、返還及び速やかな運用停止の実現に向け、実現並びに返還期日の早期確定を日米両政府に強く意思表示することを重要と考えており、宜野湾市民及び市内の各種団体が連携をして、宜野湾市が一丸となったチーム宜野湾を結成をし、日米両政府に対して共同要請行動を行う予定でございます。
具体的には、今月二十六日日曜日に宜野湾市内で、「「もう待てない!全面返還合意から三十年!」普天間飛行場の早期閉鎖・返還を求める「チーム宜野湾」結成式及び共同要請行動出発式」を開催をいたします。二十八日には県内、沖縄県を含め県内各機関に対して、また、三十日から三十一日にかけては東京都内で日米両政府に対して共同で要請を行う予定でございます。
返還合意の原点は、町のど真ん中に位置し、世界で最も危険な飛行場と言われている普天間飛行場の危険性及び基地負担軽減であり、普天間飛行場の固定化は絶対あってはなりません。過ぎ去った三十年を取り戻すことはできませんが、過重な基地負担を強いられ続けている今現在の市民の負担軽減のため、また明るい、また未来ある跡地利用というバトンを次の世代へとつなぐためにも、チーム宜野湾の取組を進めてまいりたいと考えております。
次に、跡地利用の観点についてでございますが、政府におかれましては、普天間飛行場跡地利用に関してこれまでも格別の御理解と御支援を賜っております。本市ではこれまで、公共用地の先行取得事業の取組や、政府、沖縄県などと連携をし、世界に誇れる沖縄を象徴する跡地利用計画策定に向けた検討を進めております。令和九年度には全体計画の取りまとめを予定しております。
基地跡地利用の先行モデル地区として取組を進めている本市の西普天間住宅地区の実績として、返還から十年で、沖縄健康医療拠点の開所という形でその一部の町開きを行うことができましたことが、普天間飛行場跡地は同地区の約十倍の面積であり、支障除去も含め、跡地開発には相当の時間を要することが想定をされております。
広大な普天間飛行場の跡地利用は今後の日本の経済を牽引する可能性を秘めており、この観点からも、普天間飛行場の早期返還に向けて御尽力を賜りますようお願いをさせていただきたいと思います。
最後に、三点目の本市への新たな支援の観点についてでございますが、これまで、政府におかれましては、普天間飛行場東側の約四ヘクタールの返還によって実現した市道宜野湾十一号の整備を始め、基地跡地利用の先行モデルとして西普天間住宅地区における琉球大学医学部及び大学病院の移設や沖縄健康医療拠点の形成の町づくりなど、様々な形で本市への御支援をいただいているところであり、心より感謝を申し上げたいと思います。
しかし、本市の中央部に所在する、存在する普天間飛行場は返還合意後も三十年運用が継続され、今後、少なくても返還までの約十年間の間、騒音被害や事故の危険性などの基地負担を受け続け、計画的な町づくりもできず、生活の不便や我慢を強いられていることは市民にとって極めて深刻な問題であります。
さらに、返還後も跡地利用が可能になるまで相当の時間を要することを踏まえれば、政府には、着実に市民の負担を軽減するよう、本市への新たな支援をお願いしたいところでもございます。
最後になりますが、意見陳述はこれで終了いたしますが、委員の皆様方におかれましては、本日述べさせていただきました内容を踏まえて、今後とも普天間飛行場問題について国会で忌憚なく議論をいただくとともに、一日も早く閉鎖、返還ができるよう皆様方のお力添えを賜りますよう、宜野湾市を代表して最後にお願いして、私の挨拶とさせていただきます。
以上でございます。
6
横沢高徳(立憲)
ありがとうございました。
次に、前泊参考人にお願いいたします。前泊参考人。
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7前前泊博盛沖縄国際大学経済学部長・経済学部教授/沖縄国際大学理事
今日は沖縄国際大学から二人の理事が登壇をしておりますけれども、毎日普天間基地を見ていると、この基地が返るということをまともに考える人はいないと思います。
皆さん、普天間基地を見たことある方、あるいは最近行った方は何人ぐらいいらっしゃいますか。実際に見てみて、それが返ってくると思う方がどれだけいるかということを改めて問い直したいと思います。
今日、レジュメの方に少し入れさせていただきましたけれども、我々、学生と一緒に、この海兵隊の幹部の皆さんともディスカッションをしています。毎年、三回、四回と重ねていますけれども、彼らに聞いても、辺野古ができても普天間…
この発言のページ
8
横沢高徳(立憲)
ありがとうございました。
次に、川名参考人にお願いいたします。川名参考人。
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