上村英明 (れいわ新選組)

2025年5月14日・第217回国会 衆議院 内閣委員会 第20号(外部サイト、新しいタブで開きます) の 125 番目の発言(外部サイト、新しいタブで開きます)(全 170 発言)

一応、先住民族は自由に帰属を決めたというふうに聞こえるんですけれども、当時の樺太で、樺太千島交換条約の日本語版とそれからロシア語版の正文はあるんですけれども、それを当時の樺太アイヌが読めたあるいは理解できたとは思えないわけですよね。ということは、一方的に、こういうのができたのでこっちへ移れということで、さっきの御説明にありました強制連行あるいは強制移住があったというふうに思います。

今、説明にありましたような樺太アイヌは、北海道のアイヌも強制移住というのは何度も経験しているんですけれども、更に輪をかけて大きな強制移住を経験いたしました。私が理解しているところで四回ございます、先ほどの理解だと三回ぐらいだと思うんですけれども。

一八七五年の状態で、南樺太には先住民族全体は二千三百七十二名という記録が残っています。

千島樺太交換条約で、八百四十一名の樺太アイヌがまず宗谷に強制移住させられます。宗谷というのは同じ樺太の海が見えるということで、そこだったら一定妥協してもいいよというのが樺太アイヌの考えだったというふうに言われています。

ところが、この人たちを農業移民にしたいという開拓使の一方的な強制で、翌七六年には農業移民として石狩川の下流にある対雁というところに再び強制移住をさせられました。

その後は、先ほど政府参考人の方からお話があった、病気がはやって、たくさんの方が亡くなるということがあったんですけれども、一九〇六年、日露戦争の後のポーツマス条約で南樺太が日本領となると、大多数のアイヌが帰還しました。当時の人口は三百六十六名と言われているんですけれども、これは八百名からいかに減ったかという数字なんですけれども、増えなかったんですね。その人たちのうち樺太に帰った方が三百三十九名。ほとんどの方が自分たちの先祖伝来の土地にお帰りになったということになります。

ところが、一九四五年、第二次大戦が終わると、多くの樺太アイヌが北海道にまた移住をしたということがあって、こうした百年の間に四回ぐらい大きな移住を経験した人たちが樺太アイヌということになります。

こうした度重なる強制移住の犠牲者となる中で、二〇〇一年にエンチウ協会という、先ほどエンチウという自称があるというお話をしたんですけれども、そういうものが設立されます。

二〇二三年五月に、北海道アイヌ協会と日本政府とともに、エンチウ協会の代表がオーストラリアを訪問いたしました。何のためだったか御存じでしょうか。政府参考人、アイヌ総合政策室の方にお伺いします。

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