今の答弁に対する反論をこれから申し上げます。
戦後の混乱期に新憲法の制定、宮務法ではなくて政務法、一般法としての皇室典範の制定、そして、世襲親王家である伏見宮系の皇族の、大日本帝国流憲法に言えば臣籍降下、日本国憲法下では皇室典範による皇籍離脱手続がほぼ同時並行で行われました。
戦後八十年が経過し、終戦直後の混乱期における皇室にまつわる歴史を語るには余りにも短い質疑時間ではありますが、一九四五年十一月十日、後に十一宮家五十一人のお一人として皇籍離脱をされる、終戦後の一時期、内閣総理大臣を務められた東久邇宮稔彦王が臣籍降下の決意を表明されました。
翌一九四六年八月三十一日、当時の宮内省で臣籍降下に関する会議が開催をされ、十一月二十九日に昭和天皇から、世襲親王家であった伏見宮邦家親王、この方は崇光天皇の十六世孫である方で、正室と九人の側室の間に三十二人の子をもうけられ、うち十七人が男性、その子孫が分家、独立されて十一宮家を構成されたわけでございますが、その流れをくむ皇族に、翌年一から二月頃の臣籍降下を申し渡しました。
その一月後の十二月二十四日、実質的には大日本帝国憲法、旧皇室典範下で、皇室会議により臣籍降下が確定をしたのです。
二十七日に、十一宮家が、翌年五月三日、この日は日本国憲法、皇室典範の施行日でありますけれども、その以前に皇籍離脱をしたいということを希望していることを宮内省がGHQに連絡をいたしました。そして、皇室典範増補中改正を公布し、皇族ノ降下ニ関スル施行準則廃止ノ件を裁定をいたしました。
少し解説するならば、明治政府は永世皇族制を採用していましたけれども、新たな宮家から更に宮家が創設されることによる皇族数の増加、国家予算圧迫を気に掛けており、一九〇七年二月十一日、皇室典範増補を決定し、「王ハ勅旨又ハ情願ニ依リ家名ヲ賜ヒ華族ニ列セシムルコトアルヘシ」、すなわち、天皇の意思又は皇族本人の意思により臣籍降下ができるようになりました。先ほど述べた宮家降下の件は、諸規定の改正を行い、実行をされました。
年が変わって一九四七、昭和二十二年一月十六日、皇室典範及び皇室経済法が公布をされました。
二月十一日、先ほどの山谷さんのお言葉を借りれば、このときは紀元節で、皇紀二千六百七年になるんでしょうか、に臣籍降下を実施予定日だったのでございますけれども、ここが大事な点で、一時金支出、その離脱をされた方々にお金をお渡ししなければなりませんので、一時金支出に関するGHQとの折衝が遅れたため、実施が見送られました。GHQの主張は、一時金の支給をするのであれば、天皇の一存ではなくて新憲法下の国会で定めるべき、まあ極めて財政民主主義の観点からの指摘であったのではないかと思います。
民主主義に基づく法治国家となった日本は、三月七日、皇族の身分を離れる者等に対する一時金支出に関する法律案要綱を閣議決定。五月二日に、旧皇室典範、皇室典範増補が廃止され、翌三日に、先ほど申し上げた日本国憲法、皇室典範が施行されました。
十月二日、皇籍離脱時の一時金の額が決定され、十三日、皇族会議で十一宮家の皇籍離脱案が審議され、翌十四日、新しい皇室典範十一条の一及び二により十四人、十三条により三十二人、十四条により五人、計五十一人に及ぶ十一宮家の皇籍離脱が完結しました。
長々とした説明で恐縮でございましたが、旧十一宮家の臣籍降下、皇籍離脱は、時代の転換期に先人たちが苦労しながら、大日本帝国憲法及び日本国憲法、そして新旧皇室典範によって、適法な手続によって成し遂げた大事業だったように思えます。
更に言えば、同時期に作成をされた皇室典範では、当然、立法作業を行っていた方々は、十一宮家の臣籍降下を横目に見ながらの状況であり、十五条及び九条は、将来起こり得るかもしれない、何と今この現に起きていることですが、を避けるために条文を作ったように私には思えます。その条文にメスを入れようとしているのですから、私は、今回の法改正が皇統の乱れにつながり、真に安定的な皇位継承には寄与しないことを危惧いたしております。
大正時代に起きたことも述べておきます。
一九二〇、大正九年五月十九日、大正天皇は、内規として、皇族ノ降下ニ関スル施行準則を裁定をいたしました。これは、皇族数を減らすために、原則として長子孫の系統四世以内を除く、すなわち五世からは臣籍降下をするという決まりでございます。
この準則によれば、大正天皇の直系男子でない伏見宮系皇族の全員が一九二〇、大正九年当時、直ちに降下しなければならなくなるため、附則で崇光天皇の十六世孫である故邦家親王の子を一世とし、皇族の範囲を実系の玄孫、やしゃごですね、までに限定をしたのでありました。
つまり、旧皇族については、十一の宮家それぞれについて、長男の系統のみ十七から二十世までを皇族とし、それ以外の方は皇籍離脱することとされました。次男以下の系統は十七から二十世であっても皇籍離脱となり、長男の系統も二十一世は皇籍離脱することとされていたので、二十二世以降は生まれたときから皇族ではありません。
さて、全体会議で、昨年四月、当時の衆議院議長から、旧十一宮家のうち四家、久邇宮、東久邇宮、賀陽宮、竹田宮に未婚の男系男子が存在することを前提として有識者会議で議論されてきたと政府側から説明を受けたとの発言がありました。また、有識者会議では、旧十一宮家の幾つかでは男児の誕生が続いているという発言があり、その上で議論が進められたとのことでございました。
政府は、この件について、先ほど私が御説明した皇族ノ降下ニ関スル施行準則にもし当てはめた場合、該当される方は邦家親王から何世に当たるのか、お知らせください。
32
木原稔(自民)内閣官房長官
衆参正副議長によるとりまとめにおいては、先ほど申し上げましたように、養子の対象者については、昭和二十二年十月に皇籍を離脱した、いわゆる旧十一宮家の皇族男子の子孫である男系の男子の方々と記載されているところであります。これが一つの理由であります。そして、政府は、このとりまとめに忠実に法案を作成したものでございます。
なお、このとりまとめに先立ち、先ほど紹介をさせていただいた令和三年の有識者会議報告においては、昭和二十二年十月に皇籍を離脱した旧十一宮家の皇族男子は、日本国憲法及び現行の皇室典範の下で皇位継承資格を有していた方々であり、その子孫の方々に養子と…
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長浜博行(立憲)
皇室の伝統を守るという意味では、皇室典範第十五条の規定を忘れることはできません。皇族以外の者及びその子孫は、女子が皇后となる場合及び皇族男子と婚姻する場合を除いては、皇族となることがないと決められております。皇族以外の者、すなわち、現に一般人である旧皇族及びその子孫は皇族になれないという規定です。古い言い方で恐縮ですが、一たび臣下になった者、臣籍降下した者やその子孫が再び皇位継承資格を有する閉ざされた領域に踏み込むことができない厳格なおきてとも言えます。
どうして、旧十一宮家だけが、新旧皇室典範で堅持されてきた養子の禁止、そしてまた皇籍離脱した者及びそ…
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木原稔(自民)内閣官房長官
衆参正副議長によるとりまとめにおいては、養子制度案について、いわゆる旧十一宮家の皇族男子の男系男子孫を対象にして慎重に制度設計を行うものとするとされていたところであります。
なお、昭和二十二年に皇籍を離脱をしました旧十一宮家の皇族男子は、日本国憲法及び現行の皇室典範の下で皇位継承資格を有していた方々と先ほど申し上げました。現行憲法下でも皇族であった時代があるということであります。そして、養子の対象者となるのは、旧十一宮家の方々の昭和二十二年の皇籍離脱がなければ現在も皇位継承資格を有していた方々ということになるわけでございます。
政府としては、こういっ…
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- (上の発言)
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長浜博行(立憲)
今の答弁に対する反論をこれから申し上げます。
戦後の混乱期に新憲法の制定、宮務法ではなくて政務法、一般法としての皇室典範の制定、そして、世襲親王家である伏見宮系の皇族の、大日本帝国流憲法に言えば臣籍降下、日本国憲法下では皇室典範による皇籍離脱手続がほぼ同時並行で行われました。
戦後八十年が経過し、終戦直後の混乱期における皇室にまつわる歴史を語るには余りにも短い質疑時間ではありますが、一九四五年十一月十日、後に十一宮家五十一人のお一人として皇籍離脱をされる、終戦後の一時期、内閣総理大臣を務められた東久邇宮稔彦王が臣籍降下の決意を表明されました。
翌一九四六年八月三十一日、当時の宮内省で臣籍降下に関する会議が開催をされ、十一月二十九日に昭和天皇から、世襲親王家であった伏見宮邦家親王、この方は崇光天皇の十六世孫である方で、正室と九人の側室の間に三十二人の子をもうけられ、うち十七人が男性、その子孫が分家、独立されて十一宮家を構成されたわけでございますが、その流れをくむ皇族に、翌年一から二月頃の臣籍降下を申し渡しました。
その一月後の十二月二十四日、実質的には大日本帝国憲法、旧皇室典範下で、皇室会議により臣籍降下が確定をしたのです。
二十七日に、十一宮家が、翌年五月三日、この日は日本国憲法、皇室典範の施行日でありますけれども、その以前に皇籍離脱をしたいということを希望していることを宮内省がGHQに連絡をいたしました。そして、皇室典範増補中改正を公布し、皇族ノ降下ニ関スル施行準則廃止ノ件を裁定をいたしました。
少し解説するならば、明治政府は永世皇族制を採用していましたけれども、新たな宮家から更に宮家が創設されることによる皇族数の増加、国家予算圧迫を気に掛けており、一九〇七年二月十一日、皇室典範増補を決定し、「王ハ勅旨又ハ情願ニ依リ家名ヲ賜ヒ華族ニ列セシムルコトアルヘシ」、すなわち、天皇の意思又は皇族本人の意思により臣籍降下ができるようになりました。先ほど述べた宮家降下の件は、諸規定の改正を行い、実行をされました。
年が変わって一九四七、昭和二十二年一月十六日、皇室典範及び皇室経済法が公布をされました。
二月十一日、先ほどの山谷さんのお言葉を借りれば、このときは紀元節で、皇紀二千六百七年になるんでしょうか、に臣籍降下を実施予定日だったのでございますけれども、ここが大事な点で、一時金支出、その離脱をされた方々にお金をお渡ししなければなりませんので、一時金支出に関するGHQとの折衝が遅れたため、実施が見送られました。GHQの主張は、一時金の支給をするのであれば、天皇の一存ではなくて新憲法下の国会で定めるべき、まあ極めて財政民主主義の観点からの指摘であったのではないかと思います。
民主主義に基づく法治国家となった日本は、三月七日、皇族の身分を離れる者等に対する一時金支出に関する法律案要綱を閣議決定。五月二日に、旧皇室典範、皇室典範増補が廃止され、翌三日に、先ほど申し上げた日本国憲法、皇室典範が施行されました。
十月二日、皇籍離脱時の一時金の額が決定され、十三日、皇族会議で十一宮家の皇籍離脱案が審議され、翌十四日、新しい皇室典範十一条の一及び二により十四人、十三条により三十二人、十四条により五人、計五十一人に及ぶ十一宮家の皇籍離脱が完結しました。
長々とした説明で恐縮でございましたが、旧十一宮家の臣籍降下、皇籍離脱は、時代の転換期に先人たちが苦労しながら、大日本帝国憲法及び日本国憲法、そして新旧皇室典範によって、適法な手続によって成し遂げた大事業だったように思えます。
更に言えば、同時期に作成をされた皇室典範では、当然、立法作業を行っていた方々は、十一宮家の臣籍降下を横目に見ながらの状況であり、十五条及び九条は、将来起こり得るかもしれない、何と今この現に起きていることですが、を避けるために条文を作ったように私には思えます。その条文にメスを入れようとしているのですから、私は、今回の法改正が皇統の乱れにつながり、真に安定的な皇位継承には寄与しないことを危惧いたしております。
大正時代に起きたことも述べておきます。
一九二〇、大正九年五月十九日、大正天皇は、内規として、皇族ノ降下ニ関スル施行準則を裁定をいたしました。これは、皇族数を減らすために、原則として長子孫の系統四世以内を除く、すなわち五世からは臣籍降下をするという決まりでございます。
この準則によれば、大正天皇の直系男子でない伏見宮系皇族の全員が一九二〇、大正九年当時、直ちに降下しなければならなくなるため、附則で崇光天皇の十六世孫である故邦家親王の子を一世とし、皇族の範囲を実系の玄孫、やしゃごですね、までに限定をしたのでありました。
つまり、旧皇族については、十一の宮家それぞれについて、長男の系統のみ十七から二十世までを皇族とし、それ以外の方は皇籍離脱することとされました。次男以下の系統は十七から二十世であっても皇籍離脱となり、長男の系統も二十一世は皇籍離脱することとされていたので、二十二世以降は生まれたときから皇族ではありません。
さて、全体会議で、昨年四月、当時の衆議院議長から、旧十一宮家のうち四家、久邇宮、東久邇宮、賀陽宮、竹田宮に未婚の男系男子が存在することを前提として有識者会議で議論されてきたと政府側から説明を受けたとの発言がありました。また、有識者会議では、旧十一宮家の幾つかでは男児の誕生が続いているという発言があり、その上で議論が進められたとのことでございました。
政府は、この件について、先ほど私が御説明した皇族ノ降下ニ関スル施行準則にもし当てはめた場合、該当される方は邦家親王から何世に当たるのか、お知らせください。
36緒緒方禎己宮内庁次長
お答えいたします。
まず、お尋ねの旧宮家四家については、久邇家、賀陽家、東久邇家、竹田家のことと承知しております。また御指摘の皇族ノ降下ニ関スル施行準則は、昭和二十一年十二月二十七日に廃止されたものと承知しております。
その上で申し上げれば、宮内庁においては、昭和二十二年における皇籍離脱後の旧宮家の子孫については把握していないところ、邦家親王を起点とした場合、久邇宮家は、皇籍離脱した邦昭王、朝建王、朝宏王が四世であり、その子孫は五世以上になり、賀陽宮家は、皇籍離脱した邦寿王、治憲王、章憲王、文憲王、宗憲王、健憲王は四世であり、その子孫は五世以上になり…
この発言のページ
37
長浜博行(立憲)
一九四七年の皇籍離脱時の旧十一宮家の当主は邦家親王の孫か、ひ孫か、玄孫かのいずれかに当たっていましたので、当然のことながら、旧宮家四家におられると言われている男のお子様たちは、生まれたときから私たち同様一般人ということになるのではないかなというふうに思います。
養子が合法化されれば、養親、養い親ですね、に関心が集まります。昨年九月三十日、皇室経済会議が開催され、三笠宮寛仁親王妃殿下が独立生計を営む御自身の家の創設を認定されました。
政府に伺います。
故三笠宮寛仁親王殿下は、崇仁親王殿下の御長男でしたので、いわゆる宮号はお持ちでなかったと思います。今…
この発言のページ
38
木原稔(自民)内閣官房長官
寛仁親王妃の信子殿下につきましては、皇室経済会議において独立生計認定がなされているものと承知をしております。また、養親の対象は、天皇夫妻、上皇夫妻、皇嗣夫妻以外の皇族であるということから、寛仁親王妃信子殿下も養親の対象となると承知をしております。
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