大島九州男 (れいわ新選組)

2025年3月13日・第217回国会 参議院 予算委員会公聴会 第1号(外部サイト、新しいタブで開きます) の 151 番目の発言(外部サイト、新しいタブで開きます)(全 231 発言)

れいわ新選組、大島九州男でございます。

菅原公述人、私は発災当時、輿石さんから宮城県担当を言われて一番最初に入ったのが気仙沼。本当にあのときに、もうあの燃えた臭いと、魚の、いろいろなことを思い出しますよね。

本当に大変だったなと思うんですけど、ちょうど愛知県の不登校の子供たちが、町へ出て、そこで募金をしたやつを届けに行きたいというんで、気仙沼市役所にお届けに行ったことも思い出しますし、そしてまた、小野寺先生からいろいろ頼まれて、当時、冷蔵庫の中に入っていた魚がもう腐ってどうしようもなかったやつを何とか海洋投棄したいけれど、制度でいうと遠くまで行かなくちゃいけなかったんで、これを当時の防災担当大臣がうまく処理をしていただいて、私どもはそういったところで一緒にいろいろやらせてもらったり。

企業の関係でいうと、かわむらさんが、九月までに工場を再開しないとお客さんがいなくなって駄目なんだと言う。へえ、このときに、もう既に九月にそういうこともやらなきゃいけないのかと思って、隣の県の方に工場を造ってやった。その数年後に石巻にやっぱり工場ができたんです、立派な水産加工の。そのときに分かりました、かわむらさんが言っているのが。何でかといったら、本当にお客さんがいなくて、立派な工場も余り稼働しなかった。はあ、なるほどと、やっぱりそういう英断とスピードってすごい大事だなというふうな印象を気仙沼には持っておりまして、今日、公述人からいろいろお話を聞かせていただいて、あれからもう十四年という中でなかなか厳しい状況にあるんだなと。

当時、福島復興のために企業立地補助金というものを一気に積まなきゃいけなかったときがあったんですけど、これ全国版なんで、すごく問題があるということでどうしようかといったときに、警戒区域立地補助金にすりゃいいじゃないかというんで提案をしたら、津波地域も入れましょうといって警戒区域と津波地域の雇用促進の立地補助金というのを創設したんですね。あのとき、やっぱり気仙沼もそれは活用されましたか。

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